History

ソワレの活動15年の軌跡 1995~2012

1995平成7年

僕の歌を聴いておくれ。

音楽生活スタートの年。きっかけはソニー・ミュージックエンタテインメントのミュージシャン・コンペに送りつけた1本のデモテープ。16歳の頃からメロディに自分の気持ちを載せて歌うのが好きで作りためた曲が30曲あまりあったが、その中から『ジジメイル』などのピアノ弾き語り4曲入りであった。自分の曲を人がどう思うのか、という好奇心から応募し、この年の秋に合格通知が届き、ミュージシャン養成コースに入ることに。

最初に作った曲は『弟コンプレックス』という曲。
背が高い弟へのコンプレックスを歌った曲でした。そのまんま。

1996平成8年

「シャンソンを歌う渋谷系」歌手デビュー。

音楽家養成コースではシャンソン好きということで面白がられるも時代は渋谷系全盛。B-BOY風トランクスにミニピアノを膝に乗せて弾き語るという、座るスチャダラパーのようなスタイルで歌手デビュー。ミシェル・ポルナレフ『LOVE, PLESE LOVE ME 』、『愛の讃歌』などが持ち歌であった。『公園通り劇場』の毎週木曜日に『deBEso』にガレッジセールらとレギュラー出演。ここでブリーフ&トランクスに出会う。

週2曲、曲を作ることを課題とされていたので作詞作曲に励み『ひねくれ者のうた』『あかい自転車』『のら犬』などを作りました。

1997平成9年

作った、歌った、ハミ出した。

四谷『フォーバレー』、下北沢『屋根裏』、吉祥寺『MANDALA 2』などのライブハウスに出演を重ねるも、ナゴム系、ロック系の対バンとブッキングされることが多くどうしても浮いてしまい、悩む。自分のやりたいこととステージが合っていないことに気づきはじめる。おそらく自分はライブハウス向きではなく「クラブ系のシャンソン歌手」であることを認識。『deBEso』のメンバーでイベントをやったりしていた。

ライブハウスのスタッフさんには、よくしていただいたけど、明らかに僕の扱いに困っている感じでした。

1998平成10年

ソワレ誕生@『OJAS LOUNGE』。

友人のライブを見に行ったことがきっかけで青山『OJAS LOUNGE』の一員として関わる様に。6月ソロライブ『シャンソンチックソワレ』を開催、大好評を得て活動の拠点を『OJAS LOUNGE』に決める。シバリエ、MITO、桑山哲也などの音楽仲間、そして沢山の友人と出会う大切な場所となった。『OJAS LOUNGE』オーナーの土屋氏と区別するためのニックネーム『ソワレ』がいつの間にかステージネームとして浸透していた。

『ソワレ』と命名してくれたのは『OJAS LOUNGE』のJUNくん。
お店の中だけの呼び名だったんですけどね。

1999平成11年

「クラブ系シャンソン歌手ソワレ」宣言。

『OJAS LOUNGE』でフレンチ・ポップスとソワレライブのイベント『マッドフレンチ』を月1回開催。すぐに人気イベントとなり周年には石井好子をゲストに迎えるほどに。サエキけんぞうとのイベント『ゲンズブールナイト』は六本木『プラスチック』、青山『スパイラル』などでも開催、オーガナイザーとしての活動が俄然広がる。この年の春に下北沢『ラ・カーニャ』でかぼちゃ商会を見て感激。夏にはちんどんブラス金魚を結成した。

一気に人脈が広がっていった年。シモーヌ深雪さん、ジョン(犬)さん、猫沢エミさん……。石井好子さんとイベントができて嬉しかったです。

2000平成12年

オーガナイザーとしても大忙し。そして『青い部屋』へ。

イベントオーガナイズの仕事が波に乗る。歌手の活動も、ネオちんどんのバンド ちんどんブラス金魚としても、ライブを全国で精力的に行う。ひょんなきっかけで戸川昌子と知り合い、この年の夏、新生『青い部屋』のプロデュースの話をもちかけられる。10月、はじめてのフランスへの旅。11月は大阪でライブ、12月『青い部屋』リニューアル・オープン。プロデューサー、ブッキングマネージャー&店長としての活動をスタート。

春先から戸川さんがよく『OJAS LOUNGE』の僕のライブに来るようになっていて何なのかなと思っていたら……。

2001平成13年

『青い部屋』しか見えない。

『青い部屋』に来た人はみな暖かい気持ちで帰ってもらいたいという信念でプロデュース業に熱中するも専属歌手としてのライブも。コモエスタ八重樫を介して知り合った渚ようこ、エルナ・フェラガ~モとエロチック・トロワを結成。エロチック・トロワのイベント『ブルーライト青い部屋』はじめ『越路吹雪ナイト』『パリ祭』など人気イベントを次々と企画。戸川昌子が参議院員選挙に立候補、選挙対策委員としても駆けまわる。

初回の『ブルーライト青い部屋』、SMショーで使った花火に反応した火災報知機が鳴る中で『シェルブールの雨傘』を淡々と歌いました。

2002平成14年

広がった交友関係は深くなるほどに面白い。

『青い部屋』店長を辞し、専属歌手兼プロデューサーとしてかかわることに。人気の定例イベントも増え順風満帆。歌手として『ハスキー・アモーレ・ソワレ・ナイト』『月曜シャンソンコンサート』への出演のほか各地でライブを行う。エロチック・トロワでも全国を巡業した。秋、Vivid Soundよりファーストアルバム『シャンソンチックソワレ』発売。かぼちゃ商会を気に入ったピエール・バルー一家と仲良くなっていった頃。

レ・ロマネスクと出会ったのもこの頃です。
田辺マモルさんのご紹介でした。

2003平成15年

ソワレ事変。

多くの人気イベントを抱え、音楽やパフォーマンスのジャンルの枠や超えたクロスカルチャーの発表の場、そして音楽、アートを愛する人々が世代を超えて交流ができる場として『青い部屋』は遍く知られるようになったがなかなかうまく行かない事態が頻発するようになる。一度始めたら5年は続けようという意気込みであったが、歌手としての活動にもう少し重点を置きたいと心機一転、この年の12月30日をもって『青い部屋』を卒業した。

この年の6月、初のソワレ誕生日リサイタルをshibuya O-WESTで行いました。2007年まで5回連続、合計6回続くシリーズになりました。

2004平成16年

なんとなく、お引越し。

みんなが集まれる場を作りたいという一念で1月、新宿ゴールデン街にバー『ソワレ』オープン。ソワレはじめかぼちゃ商会マキ、ギャランティーク和恵、マイア・バルー、東京タワーC子、坂本ちゃんなど日替わりママ体制で切盛り、ゴールデン街に新風を吹き込む。歌手活動は原宿のヘアサロンでゲリラライブなど。ちんどんブラス金魚は8人編成になり活動がさかんになる。テレビ朝日『タモリ倶楽部』の『河合奈保子振り付け祭り』出演、河合奈保子ファンとの交流が始まる。

『青い部屋』をやめて心を入れ替えてとかそんな大げさなものではなく、なんとなくカシを替えるお引越しという感じの年でした。

2005平成17年

ごらんよ、自由な鳥、ソワレ。

経営陣にまわった初の自分のお店『ソワレ』も軌道に乗り、思いのほか自由に、思いのままに動き回れた年。ギャランティーク和恵とプーク人形劇場で『ドキドキパニック』などのイベント、ゴールデン街劇場こけら落としイベントなどライブをこなす日々。6月はO- WESTで誕生日リサイタル。岡山はじめ地方でもよくライブをやっていた。11月にはフランス パリ、ナントでライブ。

さかんに動き回っていたわりには実の少ない年だったかも。
修学旅行みたいに楽しかったけど。

2006平成18年

シャンソンを歌う、から、教える喜び、に。

歌手活動は誕生日リサイタル中心に活動。この頃には『リサイタルツアー』で岡山『サウダージな夜』、福山『ブルー』、京都と西日本を回ることが定例化していたが、地方に行くと声を潰すことが多く歌手としての健康管理について気を遣うようになる。考えるよりも先に行動してしまうことが多かった頃でもあるが、ピアニスト エトワール板橋など才能あるミュージシャンを見つけてコツコツと育てることに喜びを見いたしていた。

シャンソン独特のコール&レスポンスを、シャンソンを知らない音楽家に教えて、息を合わせて行く感じが面白かったです。

2007平成19年

ゆとり、句読点の年。

この年で最後と決めた誕生日リサイタルが5年目にしてこれまでで最上の仕上がりに終わる。また河合奈保子オリジナル・アルバムボックス『Naoko Premium』監修、解説書を手がけ、歌手としても河合奈保子研究家としても充実した年であった。シャンソン歌手サカイレイコと出会い「ネオシャンソン歌手」からの卒業を決意する。ゴールデン街で東郷建と知り合いイベント出演。9月、ピエール・バルーコンサートの制作スタッフを務める。

いろいろな意味で区切りの年、句読点な年でした。
出演するイベントも本当によいものを選んで行こうと考えはじめた頃です。

2008平成20年

毎日が大晦日ように忙しい。

セカンド・アルバム『さよならシャンソンこんにちは~Bonjour Ma Shanson』を発売。新企画『新春シャンソンショウ』をO-EASTでスタート。映画『エディット・ピアフ~愛の讃歌~』関連イベント、7月、渋谷テレビジョンと共催でO-WEST、O-EAST、nestをつなげた大々的な『渋谷巴里祭』企画、大成功を収める。秋、『青い部屋』レギュラーイベント『ソワレin青い部屋』、イベントプロデュースを再開。目の手術を受ける。

前の年に落ち着けたと思ったら、またたくさんのイベントを仕掛けて大忙しになってしまった因果は回る糸車、という感じの年。

2009平成21年

ドラマな一年。

1月 O-EASTで新春シャンソンショー開催、大阪、名古屋、東京とツアーで回る。前の年から半年がかりで準備を重ねてきた戸川昌子誕生日リサイタルをプロデュース。O-WESTにリサイタル『大いなるディーバ』として開催、大盛況となった。レコーディング中に突発性難聴に見舞われるも、6月サード・アルバム『a la Chanson』を渋谷テレビジョンから発売。この年は2007年で打ち止めとした誕生日リサイタル復活。禁煙に成功。

『大いなるディーバ』というタイトルは僕が考えたのですが、ディーバというのはディーブなバアさん、そしてバケものという意味です。

2010平成22年

10年の時を超えて人生は繰り返す。

シャンソン好きな若者カルテット「どっシャン」プロデュース。いつの間にか下の世代から教えてを乞われる立場に。イベントオーガナイズ&出演の両道は上手にこなす。『新春シャンソンショウ』、ゴールデン街劇場ソロライブ2デイズ、『渋谷 パリ祭』。夏、アツコ・バルーから『SARAVAH東京』プロデュースの話を持ちかけられる。岡山『サウダージな夜』の名物男ボボ西澤を店長に指名、12月『SARAVAH東京』プレオープン。

7年の時を超えてのお店のプロデュース業復帰はプレッシャーというより、義務感、責任感が強かったです。ああ来たか‥って感じ。

2011平成23年

サラヴァな一年。

2月『SARAVAH東京』オフィシャルオープン。飯塚龍太朗とともにオリジナルなイベントの数々をプロデュース。『のど自慢』、『ショート・フィルム映画祭』、『巴里祭』、『大人ディスコあけみ』など。日々の自転車通勤で健康状態は向上。7月 シンガーソングライター 優河をプロデュース、CDデビューに導く。プロデュース業に専念するあまり、自分の歌手活動の時間が少なくなってしまった。11月BAR『星男』オープン。

優河は『SARAVAH東京』のオープンマイクイベント『ショウケース』で見つけた才能。サラヴァレーベルの秘蔵っ子です。

2012平成24年

オーガナイズ、歌手 両道使い。

『SARAVAH東京』プロデューサー業と同時に櫻田宗久をプロデューサーに迎え、ソワレのレギュラーライブシリーズ『トリコロールのソワレ』をスタート。歌に対する考え方は年を経るごとにシンプル化、このところはソングライティング欲が高まっている。仕事を充実させることはもちろんであるが、プライベートの生活をもっと充実させたいと考えている。越路吹雪さんの研究をもっと深めたい、健康でいたいと願っている。

越路さんもやってらしたロングリサイタルを近い将来、実現させたいです。
来年はアルバムも作ります。なんちゃってオペラもやる予定。